| お酒と化粧 航太郎が家に帰ったとき、すでに九時を回っていたが室内に灯りはなかった。 深津が先に帰っているときは玄関の上がり口からちゃんと点けておいてくれるので、暗闇に帰った時点でまだ深津が帰っていないのだ、と分かる。 「・・・・珍しいな」 4LDKの広いマンションだった。 何度目かの引越しでここに決めたのは、会社までに丁度いい物件だったのとあまり大きくないこのマンションに子供連れがいないことだった。 航太郎たち以外の住人は広いマンションに一人暮らしだったり結婚していない二人だったり、年老いた夫婦だったりと訳有りが多い。 お互いにあまり干渉しないされないところに、目を付けたのだ。 高校からの付き合いだと知り合いも共通する友達になって、自然と子供もいなければ気兼ねをする間柄ではないこの家が集まる場所になってしまう。 賑やかな中に入るのが苦手な深津だけれど、みんなが楽しそうにしているのを見るのが好きなことは航太郎も知っているので事あるごとの集まりを引き受けるようになる。 残業してきた身体を動かし、ジャケットを脱ぎ捨てネクタイを解きながらバスルームへと向かった。 そういえば、深津のいないときに帰るのはどのくらいぶりだろうか。 熱いお湯を浴びてさっぱりしたところで、冷蔵庫の中からビールを取り出す。 航太郎の好きな少し高いそれを、深津は切らしたことがない。 甲斐甲斐しく世話をしてくれるのを、航太郎は苦笑しながら受け入れる。 深津に負担がかかるのでは、とかなり心配もしたのだが、深津はそれでいてなんのストレスもないらしい。 「良い女房を貰ったよな、」 と付き合いの長い友人が羨ましがるのだが、航太郎はそれにも困ってしまう。 航太郎はそんな相手が欲しくて深津を選んだわけではないのだ。 深津といたくて一緒にいる。それだけだ。 未だに深津に対する欲が衰えない自分に自分で驚き、航太郎はもう一本ビールを取り出しリビングのソファに座った。 ここでテレビでも見ながら深津の帰りを待っていよう、と思ったのだ。 たまには待つ側にもならないとな。 航太郎がそう思いながらテレビに電源を入れたとき、玄関からけたたましい笑い声が聴こえた。 「―――深津?」 訝しみながらも航太郎が手に持ったビールを机に置き玄関へと続く廊下に出ると、その玄関には二人いた。 上がり口にへたり込んでしまっているのはこの家の住人でもある深津で、それに大丈夫か、と声をかけながらも半分以上笑っているのは――深津の師である奥香都子―おくかつこ―だった。 40を過ぎているのだが未だに体力は衰えないのか、深津より元気で若々しく見える彼女はアルコールにも強い。 顔色をまったく変えずにいるくせに飲んでいるせいでテンションがいつも以上に高い。 航太郎は溜息を吐いてそれを出迎えた。 「深津? 大丈夫か? 奥先生、いったいなんです?」 半分以上奥を抗議するような声だった。 「あら、久しぶりねー、こーたろーくん!」 「奥先生・・・!」 奥は出会ったときから航太郎を「こーたろー」と敢えて伸ばして呼ぶ。 犬のようだから止めてくれと何度言ってもこの相手は聞いてくれた試しがない。 諦めながらも睨みつけると、 「ごめんねぇ、こーたろくんが帰ってくるまでには帰るって言うから、そうさせるつもりだったんだけどぉ」 酒に強いと言ってもどれだけ飲んだのか分からない。奥の口調はどこか間延びしていた。 「あんまり飲ませないで下さいと、いつもお願いしていますのに・・・」 「そんなに飲んでないのよ、ちょっと遊んでたら止まらなくなっちゃって」 「遊ぶ?」 「そうそう、深津ったら、ひがむ気も起きないくらいなんだから」 「はい?」 そういう深津は帰ってきてからぐったりと廊下へへたり込み顔を上げない。 意識がないのだろうか、と航太郎が手を出したところで奥がドアから出てゆく。 「じゃ、私外にタクシー待たせてるからぁ・・・あんまり、啼かせてあげないでね、明日が大変だから・・・」 「先生? ちょっと・・・」 意味深な言葉だけを言い残し、奥はさっさとドアの向こうに消えた。 奥が自分勝手にも見えるような態度を取るのはいつものことで、それが彼女の持ち味でもある。 今更なにを言っても仕方がなかった。 航太郎はとりあえず蹲ったままの深津をいつまでも玄関に置いておけない、と手をかけた。 「深津? 起きれるか? とりあえず靴脱いで・・・・・」 そこで航太郎は手を、声を止めてしまった。 気だるそうに航太郎に手を借りて身体を起こした深津は、いつもの深津ではなかった。 「ちょっと遊んだ」 と言い残した奥の言葉が甦る。 まったく航太郎は舌打ちしたい気分だった。 深津の顔は素顔ではなく、まさにプロの手によって綺麗にメイクが施されていた。 深津のことを良く知っている奥や、その飲み仲間達を思い浮かべて航太郎は苛立った。 メイクされた深津はいつも以上に綺麗だ、と思ったからだ。 しかもアルコールを含んでいるせいで頬はほのかに桃色に染まり、グロスの付いた唇は軽く開かれて目を閉じたその表情はまるで誘っているようだった。 「・・・・深津」 それでも航太郎は理性を保ち、腕の中の相手を揺すった。 「ん・・・っ」 苦しそうに少し眉を寄せた深津に、航太郎は諦めた。 もう、どうにでもなれ、と匙を投げたのだ。 腕に抱いた深津からは、甘いアルコールの香りがした。 「う・・・ん、」 深津がゆっくりと目を覚ますと、そこは朝日の中の部屋だった。 何度か瞬いて部屋の中を見て、どこかぼんやりとした意識がはっきりとするまでそのままでいた。 「・・・あれ?」 朝なのだ、と感じたけれど、何故かいつもと違う気がする。 起き上がってみればそこは航太郎のベッドで、しかも深津は裸のままだった。 「あれ? え・・・っと?」 して、しまったのだろうか? そう思うのだけれど、深津は昨日の記憶がすぐに出てこなかった。 そのうちに寝室のドアが開いて、航太郎が顔を見せた。 「あ、深津、起きたのか・・・もう起こそうかと思ってたとこだったんだ」 「・・・あ、はい、・・・おはようございます、」 「おはよう、気分は?」 まだ呆けたままの気分でとりあえず挨拶をすれば、航太郎が笑ってベッドに近づく。 「別になんとも・・・あの、僕、昨日・・・」 「顔、一応・・・お前の持ってた落とすやつ探して、化粧落としたんだけどさ、汗流すついでに、風呂入ってこいよ」 「顔・・・? 化粧って、僕・・・・?」 深津は自分の顔に触れた。 なんとなく、いつもと違う肌質な気がする。美容師という職業柄、深津はメイクもするし時にはスタイリストに似たこともする。 それをずっと見てきた航太郎は、それらの扱い方も一通りはなんとなしに知っていた。 「・・・覚えてないか?」 「・・・・・」 困ったように笑って覗き込まれて、深津は昨日の航太郎の身体を思い出した。 かあっ、と一気に体温の上がった顔を俯かせて、 「あの、シャワー浴びてきます・・・・!」 床に落ちていたシャツを羽織って、バスルームに飛び込んだ。 「ううー・・・・っ」 熱いお湯を頭から浴びながら、深津は昨日のことを徐々に思い出していた。 真っ赤な顔で唸ってしまうのは、いつもより航太郎が情熱的で深津もそれに抗うことなく受け入れてしまったからだ。 酔っ払っていたのだ。 でなければ、あんなことまで出来るはずもないし許せるはずもない。 いや、泣いたけれど止めてもらえなかったし、自分もそれを喜んでいたような気がする。 「・・・っなんで、あんなこと・・・・」 自己嫌悪とはこのことだ、と深津はさらに深くシャワーを浴びた。 気まずい気持ちのままだったけれど、時間も気になったので深津は上がって身支度を整えた。 それでもすぐに顔の赤みが引くはずもなく、俯きながらリビングに入ると航太郎が上機嫌で朝食の用意をして待っていた。 「あの・・・」 「ゆっくりだったな、腹減っただろ? 食おうぜ」 「あ・・・はい」 勧められるままに深津はいつもの自分の椅子へ座り、テーブルに並ぶモーニングを見た。 メインにあるオムレツは航太郎特製で、チーズとハムの入った深津の大好物だ。 嬉しくなりながらも、どこまでも機嫌がいい航太郎に深津は、昨日自分が何をしたのか思い出してないことがあるのだろうか、と不安になる。 酔っ払って帰ってきたはずなのだ。 仕事が終わり、店に施錠したところを奥が迎えに来てそのまま攫われるように飲みに出かけた。 航太郎が帰ってくるまでには帰りたいから、とセーブしていたはずなのだが途中から記憶がない。 そこから気が付けばベッドの上で航太郎の身体にしがみ付くようにしていたのだが――― 「こ・・・航さん」 「なんだ?」 深津は息を飲んで、口を開いた。 「なんでそんなに機嫌が良いんですか・・・・っ」 自分はいったい何をしでかしたのだろう。 そう思うと美味しいはずのオムレツもなんの味もしないのだ。 その深津の気持ちに気付いたのか航太郎は顔を綻ばせて、 「別に、普通だ」 「普通じゃないですっだって僕、昨日酔って帰って・・・迷惑かけたんじゃ・・・っ」 赤い顔が青くなるほど心配してしまった深津に、航太郎はなんでもないように笑った。 「迷惑って・・・ちょっと嬉しかっただけだ」 「な、なにがですか・・・?」 「俺が酔って帰るとさ、いつもお前がいろいろしてくれるだろ? それをたまには俺だってしてやりたいと思ってたし・・・それに昨日はかなり大胆だった」 酔っ払ってるんだろうとは思っていたが、と続けた航太郎に、深津は真っ赤になって何も言えない。 「してって言うお前も結構・・・」 「航さんっ!!」 もう勘弁してください、と深津はテーブルへ赤い顔を伏せた。 絶対にもう酔っ払わない、と決めた深津だったが、昨日化粧までされたことはもう記憶に残っていなかった。 航太郎も教えてやるつもりはなく、もう一度奥に約束させよう、と決意した。 あんな顔を、他の人間に見せられたのではたまったものではないのである。 |
fin.