新婚日記






「俺、もうお前の先輩じゃないんだけど」

その声があまりに真剣で、突き放されたように感じて目の前が真っ暗になった。
けれどよく考えれば、暗くなる意味ではないのだ、と深津は思い直し顔を伏せた。顔が赤くなってしまったからだ。
すでに大人の男と見れる身体つきの相手は、初めて出会ったときから深津を魅了しそして変え続けてきた。
引っ込み思案で、相手に気を遣いすぎて何も言えなくなるほど晩熟で、男にしてはもったいないほどの容姿のせいで好奇に曝されますます俯くようにしていた深津を、今ではそれが全てまやかしだったように変えてしまった男。
その航太郎が、真剣な顔で言う意味は、深津も理解できた。
「先輩」と、不特定多数の名前で呼んできたのは深津なのだ。
それを改めろ、と強い視線で言う苦しいくらいの想いに、深津は胸から全身に熱が伝わった。
「深津」
「……こ、たろ、さん?」
「こたろ?」
「…………航太郎、さん」
戸惑った声を改めると、視線の少し高い位置から何よりも嬉しい、と子供のように微笑えまれた。
その名前から、呼びやすいように略されるようになったのは、それほど時間もかからなかった。
出会ってからずっと、初恋の気持ちを忘れきれない二人は、いろいろあった末に一緒に住むようになっても変わらなかった。


* * *


「航さん、航さん!」
2DKの部屋は、社会人になって一年も経たない二人には丁度の広さと住み心地だった。
リビングと呼べない広さを兼ねたダイニングキッチンと、ベッドルームに一部屋。そして荷物置きになっているもうひとつの部屋と浴室にトイレ。狭い廊下の向こうにある、やはりこれも狭い玄関。
住めば都、とは良く言ったもので、その部屋に航太郎も深津も不満もなく暮らし始めて一ヶ月が過ぎた朝だった。
二つベッドを並べるのは狭すぎる部屋だ、と言う理由で、セミダブルのベッドで上を向いて、夜眠りに就いたままの状態で眠り続ける男に、深津はタオルを抱えて手をかける。
「……ん…あと、五分、」
「ダメです! もう遅刻します!」
タオルをその身体にかけて深津が必死になって揺り起こす。
航太郎はその声を聞いて、ゆっくりと目を開いて手を伸ばした。
「……おはよ、みつ…んー……」
「早くシャワー、浴びて来て下さい」
「みつー」
「ご飯食べる時間、あるかな……」
自分も寝坊したのだ、と心配な顔で寝室を出る深津の背中を首だけを起こして航太郎は見送った。そして夏の気温の上がり始める室内で、タオルケットも肌蹴た身体に乗せられたタオルを見て小さく溜息を吐いた。
身体を起こして、
「うー…やっばいよなぁ……?」
隣には聴こえない声で呟き、短い髪をバリバリと掻いた。
渡されたタオルを掴んで立ち上がり、大人しく浴室へ向かう。時間を見れば七時半だった。気取って朝にシャワーなど浴びなければ充分に出勤時間には間に合う時間なのだ。
けれど深津は、それが航太郎の習慣だ、と一緒に暮らし始めてから滞りなくさせようと、こうして日々世話を焼いてくれる。
嬉しい、と初めは感じた。
けれど昨日は、ようやく成人した深津とほろ酔いに飲んで、その色気に負けてベッドに倒れた。
その甘いはずの朝は、こうして破られて起こされる。
「もっと、潰れるくらい抱いてやろうかな…」
深津が聞いたら真っ赤になって口も聞けなくなるだろう提案を口にして、それでも大人しく熱めのお湯を浴びる。寝起きの頭が覚醒してきて、この習慣をどうしようか、と悩んだ。
実のところ、航太郎は朝にシャワーを浴びる習慣などない。
けれど、深津が部屋に泊まった日はほとんど朝になってから風呂を使ったし、深津にもつい、そうしないと目が覚めない、と格好つけて言ってしまった。
漸くスーツがしっくりと似合い始めたこの頃、どうしたもんかな、と修行僧のようにシャワーの温度を下げた。

     *

腰がだるい、と深津は広くはないキッチンシンクに両手を突いて頭を下げた。休日でもないのに、昨夜はアルコールを軽く飲んで誘われるように航太郎の手に落ちた。
したこと事態は、嫌なはずがない。
他人と身体を重ねることの気持ち良さを、航太郎に教えてもらって、他の誰かと試したいと思ったこともない。
けれど、快楽に酔いしれたあの時間は仕方ないと思っても、それを明かして朝になった時間が、未だに慣れないのだ。
今朝もつい、早くに起きて真っ赤な顔を落ち着けるのに航太郎の寝顔を見つめて、気付けばこの時間だった。
初めて一緒に朝を迎えて以来、航太郎の習慣である朝のシャワーを欠かせたくはなく、このところ毎日朝の時間は忙しない、と自分でも感じた。
そして今、目の前に広がる朝食が、最近の深津の難関だった。
「ご飯って、なに……作ろう、今日、」
途方に暮れるような声で、泣きそうに呟いた。実家で両親と暮らしていた深津は、実のところ料理が苦手だった。
朝晩はもちろん母親の手料理だったし、自分で作っても鍋ひとつで終わるようなラーメン、うどん、と繊細そうと言われる見た目とは裏腹に、大雑把なものしか出来ない。だが手先の器用な航太郎の傍にいると、その部屋に遊びに行くとさっと料理を作ってもらうことも増えて、自分でも少ししてみよう、と密かに特訓もしてみた。母親に、自立をするから、と頼んで少し料理も教えてもらった。
けれど、出来るのは簡単に出来る素人の洋食系――パスタやポトフなどだ――で、朝はパンを焼いてタマゴをどうするかくらいしか出来ない。
最初の日に一番の料理としてサラダエッグを作り、それからも何か他に一品、と必死になっている毎日だった。
しかも最近になってやはり、と感じたのは、航太郎が実は和食が好きだ、と言うことだった。
スーツも似合うスタイリッシュな外見で、遊びもオシャレなお店で食事をすることも手馴れていそうな航太郎だけれど、実は鍋屋や和食専門店でゆったりと寛いで食べるのが本当に嬉しそうなのだ。
航太郎に喜んでもらいたい深津は、夢に思い描くような日本の朝御飯を作ってみたい、と思うのだが実力と経験がまったく足りない。
高校を卒業して二年間学校に通ったお蔭で、美容師としての手先なら不自由なく動くようになった深津だけれど、そのほか、日常的なことに関して深津ははっきりと、不器用だ、と自分でも言い切れた。
それならそれで、そのままの深津でもきっと航太郎は怒ったり嫌ったりはしない。そう思うけれど、初めての朝に作った朝食に、笑顔で喜んだ航太郎の顔が忘れられずつい、これからは毎日任せてください、と言ってしまったのだ。
航太郎がシャワーから出てきて、朝の用意をして出勤するまでの時間を見て、深津はとりあえず冷蔵庫を開けたのだった。


* * *


「馬鹿か?」
深津は鏡に映った自分の情けない顔を見て、言われた言葉に肩を落とした。そう言われるのは当然で、数少ない深津の親友、と呼べる相手だからこその言葉なのだ、とその辛辣さが有難くも感じられる。
ここ「REG」は繁華街に店舗を構える美容院で、深津が師匠とする奥香都子と言うこの世界ではかなり名前の知られた美容師の店だった。
専門学校を出て、深津は難関と言われたこの店への就職に成功し、美容師生活を始めた。
この店はかなりの実力主義で、力さえあればどんどん上に行ける。けれど入ったばかりの深津はまだほとんどが助手と雑用なのが現状だ。周囲は年上の女性が大半で、その外見に反してかなりの厳しさを持つ先輩ばかりだ。その環境が深津には喜ばしく、必死になって上を目指していける絶好の場所でもあった。
その深津は今、椅子の後ろに立って買ったばかりの真新しい自分のシザーを構えている。
椅子に座っているのは公私共に相談相手となってくれる、辰彦で、練習台とも言える深津のカットに付き合ってもらっているのだ。
まだ大学生の辰彦はラフな格好で閉店ギリギリに店に駆け込み、邪魔にならない端で深津の相手をするべく椅子に座って鏡を見ていた。
その深津の表情が優れないな、と訊いたのは辰彦で、つい素直に答えたのは深津だ。それの感想が、辛辣な一言で、
「そ、そんなの…言われなくても、解ってるよ……」
「解ってるなら、どうにかしろよ、お前今さら航太郎先輩に格好つけてどうする?!」
「航さんだから、良く見られたいんじゃないか……」
「お前なぁ? だから最初に言っただろ、同棲する前にお互いの生活習慣くらい教え合っとけって」
「…………それは、ちゃんと、訊いたけど」
「自分のことは、言ったのか? つーか今更だから言っとくけど、お前が不器用なことくらい、あの先輩が気付いてないとでも思ってんのか?」
「………………」
「まあ先輩も甘いから、深津が頑張ってるならって放ってるんだろうけどさ」
甘いよなぁ、と顔を顰めて溜息を吐くのが、鏡に映った。
鏡越しにその顔を見て、
「そんな……知ってるなら、ちゃんと航さんは、言ってくれるって、」
「お前が頑張ってんの、知ってるから言えないんじゃないのかよ」
「………………」
「それとも頑張ってないとでも言うのか? 今日の朝飯、なんだった?」
「…………ポテトサラダと、マカロニとカニカマのサラダと、目玉焼きと、」
「朝から作ったのかよ?」
「だって、昨日の夜は…………」
鏡に向かって言いかけて、しかし思い出して顔を染めた。辰彦は自分の後ろで真っ赤になって声を失くす友人に深く息を吐いて、
「ああもう、いい、いい。言うな! お前のそんなこと聞きたくもない」
「…………ごめん、」
「それよりさ、朝はトーストとさ、インスタントのスープくらいでいいじゃん。それだけあったら、俺は充分だと思うけど?」
深津はその言葉に今気付いたように、
「……そっか! スープっていうのもあったんだ!」
新しい種類を発見した、と顔を輝かせる。
辰彦はそうじゃないだろ、と首をがっくりと下げて、
「いや先輩なら、お前がコーヒー淹れてくれるだけで嬉しがるだろうけど、」
「……でもさ、もっと喜んでもらいたいし、本とか見て、簡単なレシピ探してみたりするんだけど、」
「ああ…ああいうのって、簡単すぎてどの程度かってのわかんなかったりするよな。微妙な加減がわからなかったりするし」
「そう! そうなんだよ! 少々って、どのくらい? って思うし、ひとつまみって、どのひとつまみだろって!」
漸く意見が合った、と深津が意気込み、それは解かる、と頷く。頷いた辰彦に、今度は深津が首を傾げた。
「……でも辰彦、そんなことよく知ってるね、料理出来たっけ?」
「俺はお前と同レベルだ。この話は……翔子が言ってたんだ」
「あ……」
語尾が小さくなった辰彦の声に、深津もバツが悪そうに声を止めた。だが先に苦笑するように口を開いたのは辰彦だ。
「あいつは、作りながらそんな愚痴を素直に言うやつだったからな」
鏡の中の辰彦はどこか愛しそうに呟く。
その名前が深津の口を塞いでしまうのは、すでに相手がこの世にはいないからだった。辰彦の彼女の翔子はとても活発で優しく、深津にも親しい少女だった。
それが「交通事故」という短い理由で呆気なく姿を消したのは、時間にすれば四年ほど前のことだ。
辰彦は誰かに気遣われるというのが嫌いな性分でいつも飄々としているけれど、その胸の中は未だに新しい「彼女」を作らないことから深津にはよく解かっていた。
重くなりかけた空気を戻そうとしたのも辰彦で、
「ま、お前は何でも真面目にしようとする性格だもんな、手抜きが出来ないというか。だからこの仕事、合ってるんだと思うけど」
「……要領が悪いって言われてる気がする」
「言ってないことはない」
「辰彦!」
鏡越しにまた言い合いを始めようとした時、バックヤードから声を掛けられた。
「深津! あんたはまだ終わってないの? 始めてどれだけ時間経ってると思ってる?」
「す、すみません!」
振り向いて慌てて謝ったのは深津だ。
そこに現れたのは深津が師匠と仰ぐ、一流と言われ始めた奥だった。深津に並び辰彦の後ろへ立ち、鏡越しに目を合わせる。
「ごめんなさいね、辰彦くん。新人の練習台なんてさせるの勿体無いくらいなのに」
「いえ、いいっすよ。俺、とりあえず髪は短ければいいかなってくらいなんで」
そう言って笑う辰彦だけれど、身体を覆う大きなカットクロスを取れば、ラフな恰好なのに人目を引く洒落気が滲み出ている人間だった。
「毎回ここに来て、深津の愚痴も聞き飽きたわよねぇ、」
「せ、先生!」
「あれ、違うの? 愚痴ってて遅いんじゃないの? この新婚が!」
「し…っしんこん、って……!」
呆れた口調ながらも、最後ははき捨てるような声を隠しもしない言葉に、深津は顔をさっと染めてしまう。
この店に勤め始めてから深津は住所を変えた。しかしそれまでの言動や行動においても、勘の良い奥には航太郎とのことがバレてしまっている。この業界には多い、とあっさりと受け入れながら、その初々しさに見守りつつも呆れ、「新婚」と貶すような声になるらしい。
奥がなんの躊躇いもなく、遠慮もなく言うのに、辰彦は盛大に笑う。
「あはは、確かに、新婚ですね、こいつんとこは!」
「辰彦まで……っ」
「まったく聴いてて呆れるほどの新妻よ、深津は。私だってそんなことしたことないし、こーたろなんてどれだけ亭主関白なのよ、って初めは思ったもんよ」
奥は何度言っても、航太郎を「こーたろ」と発音する。犬みたいで嫌だ、と航太郎が嫌な顔をすればするほど、笑顔でそう言い続けるのだ。
深津は幼さの残る顔を盛大に膨らませて、
「航さんはそんなんじゃ……」
否定しようとしたのに、辰彦と奥は鏡の中で目を合わせ、瞬間に噴き出した。
「ちょ…っ、なんですか! 二人して!」
さすがにヒドイ、と深津が怒りを見せると、奥は涙まで浮かんだ目尻を拭き取りつつ、
「あんたって、本当良妻よね、こーたろが羨ましいわ」
「良妻って……」
「私もあんたみたいな奥さんが欲しいわぁ」
「先生……」
奥は数年前に離婚して、まだ小学生の娘と二人暮らしだった。その奥に、辰彦は鏡越しに視線を向けて、
「奥先生って、朝食、どうしてます? 食べてますか?」
「んん? 今日は、夕べの残り物よ、ほとんど…ひじきの煮物と、カレイの干物と、冷奴と、娘が血圧低いからほうれん草のおひたし、お味噌汁とご飯」
指折り数えた朝食に、深津はますます尊敬の目を強くした。
「朝ごはん……」
そんな朝食が出てきたら、航太郎にどんなに喜んでもらえるだろう、と想像しただけで嬉しくなった。だが、現実には出来ることは冷奴くらいだ。
一瞬で暗くなった深津に、奥がどうしたの、と覗き込むと辰彦が苦笑して理由を説明する。
「コイツ、先輩に美味しい朝飯、作りたいらしいんですよ」
しかも和食で、と付け加えると、奥は驚いて、
「あんたって…本当、妻の鏡?! どんだけ可愛い奥さんになるつもりよ、世の中の女に対する厭味か!」
吐き捨てつつも顔は笑ったままだ。
深津が笑われたことに対して目尻を上げると、
「目玉焼き? ポテサラも出来るの? じゃ、別に難しいことなんかないわよ。今言ったメニューなんて小難しい調理なんてしてないもの」
「そう言いますけど、僕、そういえばお味噌汁は作ったことがない……」
呆然としてその事実に気付くと、奥は不思議そうになって、
「え? でも、ポトフ作ったって、前に言ってなかった?」
「それは、出来ましたけど、」
「じゃ、変わんないわよ。コンソメ、塩コショウから、出汁と味噌に変わるだけよ」
「……そうなんですか?」
「そうよ、うちの娘だって作れるわよ」
「……そうなんですか」
びっくりして、しかし少し自分に期待をしている顔に、辰彦と奥はやはり楽しそうに笑う。
そして奥は笑った後で、
「新婚ってそんなものよね、」
嘲笑するでもなく、どこか懐かしむように呟いた。

* 

「あー、腹減った!」
サロンの控え室に入るなり同僚がここぞとばかりに嘆くのを、航太郎は時計を見て確認する。
「まだ十時だぞ」
「もう十時なんだよ」
「昼まで二時間…いや、今日は遅番か、三時間あるのに?」
「うっさい、朝飯食ってねんだよ、」
控え室で冷蔵庫に入っていたペットボトルのコーヒーを腹の足しにならない、と言いつつ飲む依島は同期入社で、航太郎とはかなり仲が良かった。
この春、ブライダル総合会社「アクシス」に就職したときの希望は営業・企画だったはずなのだが、研修と称してこの一年はサロンで働くことが決められていた。その後も、素直に営業に回されるかどうかは解からないが、一通りは知っていなければその部署には回せられない、と言う会社方針なのだ。
航太郎も同僚も納得しつつ、サロンで新しく来る客や結婚式に借り出され、漸くサービスのほうも板に付いた頃だった。
依島の嘆きに、なるほど、と納得する。
「寝坊したのか?」
「寝坊って、お前なぁ……」
純粋に訊いた航太郎に、呆れた顔をする。どういう意味だ、と航太郎が聞き返す前に、その控え室にもう一人仲の良い同期の船曳がジャケットを脱ぎつつ入ってくる。
「誰もが、航太郎みたいに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる恋人がいるとは限らないんだよ、」
「そうだ! 独身男の朝なんて、ギリギリまで寝て慌てて用意してコーヒーの一杯でも飲めたらかなりすごいことだぞ!」
「…………そうか?」
今日も朝から深津の手料理を堪能して来た航太郎は、自分の生活を思い出して首を傾げた。
相手が男だ、とは言っていないが、航太郎は恋人と暮らしていることを隠してはいない。特に最近は新婚家庭そのものだ、と同僚達から呆れられるほどの蜜月ッぷりを見せ付けているのも気付かないでいる。
「木崎くんの爽やかさって、生まれ持ったものに見えて彼女の努力の賜物ってわけ」
そして最後に入ってきたのは三人の上司で、このサロンのチーフマネージャである峪町だった。
今年三十になった、と嘆いていた女性チーフはしかし、独身でありながらどこも乱れがない美しさを保っている。
皮肉気に笑った峪町に、航太郎は自分の恰好を見直して、
「爽やか?」
他の同僚とも、サロンでの制服スーツを見に纏っているので変わらないはずだ、と二人にも視線を送る。けれど峪町は航太郎と二人を見比べて、
「違うわよ、女ってそういうとこ良く見るからね。航太郎くん、朝シャンとかしてる?」
「あー…暑いので、はい、」
それについてはその通りだったので素直に頷いた。
素直に答えたのに、同期二人と女性チーフが盛大に溜息を吐いてくれる。
「な、なんだよ、お前らまで?」
珍しく動揺した航太郎に、峪町は面白いものを見つけた、と目を細めて、
「爽やかに誤魔化してるんじゃなくて、本当に爽やかなの。そりゃ木崎くんがサロンで一番評判になるはずよ」
「そ…そうなんですか?」
自分の男としての雑さを自覚している航太郎には、そう言いきられても納得出来ない。だから「爽やかに朝からシャワーを」と言われて、困惑した顔をして溜息を吐いた。
「いや…俺だって、別に爽やかを目指してるわけじゃ……一応サービス業だから、清潔にはしていたい、とは思いますが」
その表情は今朝も思った悩みが浮いていたようで、同期二人が目敏く気付いた。
「なんだよ、何かあったのか?」
「世話を焼いてくれる可愛い恋人に不満か?」
「いや、そうじゃなくって……俺、元々、朝シャワー浴びる習慣なんてないんだよ、」
ぽろり、と本音を零すと、それがどうした、と三人は顔を顰める。
「だから…そんなもんないけど、つい、あいつには、そう言っちゃって……」
格好付けて、と苦々しく自分の言動を思い出す。
「そしたらちゃんと、余裕のある時間に起こしてくれるし、眠たくてもシャワーのお蔭で目が覚めるし……」
結果、この状況だ、と航太郎は首を落とす。
困惑を見せれば、少しは同情もしてくれるだろうか、と思うと、不意にその場に沈黙が落ちる。どうしたんだ、と航太郎が顔を上げると、そこには三つ並んだ顔が同じ表情をしていた。
全員――呆れていたのだ。
「……なんだよ?」
訊かれて、全員息を吹き返したように、
「おっまえ……! のろけんのもいい加減にしろよ!」
「ゼータク言ってんじゃない、この新婚野郎が!」
「独り身を前にしてよくそんなこと言えたわね、本当に……っ」
「え? ええ? なんだよ?」
罵られる意味が解からない、と航太郎がその勢いに飲まれて身体を引くのに、三人とも怒りを隠しもしないでそのままグチグチと言い続ける。そして同意する仲間もいるものだからどんどん航太郎の爽やか評価は下がっていく。
新婚って、罵りだったか、と航太郎が不思議に思うのも気にされず、
「サイアク、私木崎くんみたいな男とだけは、結婚しないって決めたわ、今」
「俺も航太郎みたいにはなりたくない」
「幸せの中に居るヤツって、幸せが全然解かんねんだよな」
その裏にあるのが、羨望と嫉妬であるには違いないが、それを今は怒りでしか表現出来ないのだった。
「ますます腹減っただろ! クソ、今日の昼飯、航太郎のおごりだからな!」
「え、何でだよ!」
「うっさい、素直におごれ!」
「全然、意味解かんねんだけど…? 俺の悩みに答えてくれたわけでもないのに」
「答えだ? んなもん決まってるだろ、言えばいいんだよ!」
「そうだ、悪いけど、航太郎にそんな習慣はないって言って、失望されて振られてしまえ!」
「そうよね、そういう小さなことでも、隠されてると女ってショックなものよ」
深津は女じゃないのだが、と航太郎は思いつつ、確かに隠し事は良くない気がする、と素直に頷いた。
しかしどうやって切り出そう、と航太郎はいつまでも可愛くて仕方ない恋人を思った。


* * *


先に帰った航太郎は夕食の準備をして深津を待った。
店に勤め始めてから、閉店後に練習を重ねる深津のほうが帰宅も遅くなる。朝も誰よりも早く行くため八時半には家を出る。そして今日も、十時を回った頃に帰ってきた。
「お帰り」
「……帰りました、」
少し疲れた様子なのは、いつものことだ。一日立ち仕事をこなしているのだ。その深津のために、航太郎は少しでも喜んでもらおうとして深津の好みのものを作って待つ。
「飯、出来てるけど、先に風呂入るか? それともちょっと休む?」
「航さん、ご飯は……」
「ちょっと摘んだだけ。一緒に食ったほうが美味しいと思って」
まだだ、と告げれば深津は申し訳ないような顔をして、
「じゃ、先に食べます、」
「でも、風呂入って疲れ取りたいだろ? さっぱりするし」
「……じゃあ、何で選ばせるんですか」
風呂を推すなら、食事は勧めないで欲しい、と深津が拗ねたように見上げると、航太郎は目を細めて、
「ん? だって、新婚ってそんな会話かな、と思って」
「し…………っ」
さらり、と言われた言葉に、深津は今日店でも散々言われたことを思い出して顔を染めた。どこで知ったのか、と深津がうろたえるのも気にしないで、
「今日、会社で言われたから。のろけるなって」
「……こ、航さんも?」
聞き返した深津に、航太郎は嬉しそうに、
「なんだ、深津も言われたのか? って、また奥先生にからかわれたんだろう」
その通りだ、と深津は俯くけれど、航太郎は全く気にせず、
「いいじゃないか、新婚には違いない。今のうちに思い切りのろけておこうか?」
「の、のろけてって、航さん……」
「じゃ、新婚らしく、一緒に風呂入る?」
一度俺は入ったけど、と手を広げてみせる航太郎に、深津はさらに真っ赤にした顔を左右に勢い良く振って、
「いいいいいです! 一人で入ります!」
「そうか? じゃ、待ってる」
「…………っ」
浴室のドアの前で、軽く額にキスを落とされた。先にダイニングに入っていたのは航太郎で、深津は顔の火照りが収まるまでそこから動けなかった。

     *

風呂上りの火照った身体でダイニングを覗けば、テーブルにラップのかかった料理が並んでいた。航太郎は椅子の一つに座ってテレビに向かっている。
深津が出て来たことに、その冷めた料理を温め直し始める航太郎に、深津は気付かれないように小さく息を吐いた。
暑い毎日で、正直食欲も落ちている。さらにこんな時間からの食事は本当なら食べなくてもいいくらいだった。しかしそれを続けると、本格的な夏に深津はバテる。
その体質を知っているから、航太郎は食事に気を遣ってくれるのだが、深津は並べられたものを見て溜息を吐いたのだ。
特に里芋と鳥ミンチの甘辛煮は少し七味が効いていて、深津の好物だ。当然のようにあるそれが、買った惣菜であるはずがないのは見れば解かる。航太郎が作ったのだ。
その事実を前に、深津は今日の店での会話を思い出さずにはいられなかった。
「どうした? 座れよ。麦茶でいいだろ?」
「……はい」
大人しく頷いて、されるままに深津は座って航太郎の世話を待った。
頂きます、と両手を合わせて言ったのは同時で、こんな時間からなのに航太郎はいつもと変わらない食欲で皿を開ける。深津はその箸を眺めつつ、大好きな里芋を口に入れて飲み込んだ。
飲み込むと、代わりに胸の奥から込みあがってくるものがある。それは目に直結して、熱くなった場所を深津は堪えようと、ぎゅう、と閉じた。
「深津?」
不味かったか、と不思議そうに覗き込んでくる航太郎を見上げると、押え切れなかった雫が零れた。
「み……深津?!」
驚かれて、泣いた自分にも深津は驚いた。
それからその意味を自覚して、愕然とした航太郎を強く睨む。
「どうし……」
「ずるい、」
「え?」
「ずるいです、航さん!」
「…………なにが?」
「どうしてこんなに美味しいのが作れるんですか?!」
「……どうしてって…こんなの、本とか見たらすぐに、」
「簡単に言いますけど、僕は本を見たって解かりません!」
堂々と出来ないことを言い切って、食卓に並ぶ料理を見る。二十三歳で、一応独身の男が、ここまで作れることがまずおかしい、と深津は訝しんだ。
悔しいのだ。
どう頑張っても、航太郎に勝てない自分が悔しくて涙が溢れた。まるで子供だ、と思いつつも拗ねたように航太郎を睨むのを止められなかった。
航太郎はその視線に驚いて、自分の作った料理と深津を見比べてから思わず顔を崩す。
「って、深津そんなことを……」
「笑い事じゃないんです!」
「つっても、お前だって毎朝作ってくれてるだろ?」
「あれは……っ」
深津は毎朝の格闘を思い出し、少し躊躇った後でもう今更だ、と打ち明けた。
「……あれで、精一杯なんです…本当は、最初の日に作ったサラダ、あれが僕の一番出来る料理の全部で、後は毎日誤魔化して……」
「そうだったのか?」
深津は項垂れるように頷いた。
あれ以上のものは、どうしたって作れない。航太郎の本当に好きなものを、作ってあげることが出来ない。それが悔しくて、悲しかった。
「言おう言おうって、思ってたんですけど…つい、航さんに、がっかりされたくなくて、」
ごめんなさい、と小さく付け加えた深津に、航太郎はなんだ、と全く気にならない声を出した。
「そんなこと、俺は全然気付かなかったぞ?」
「え?」
「俺の好きなものって…俺が好きなのは、料理そのものじゃなくて、深津が俺のために作ってくれたもの、って意味だし」
だから毎朝が嬉しかった、と微笑む。
そしてテーブルの上から手を伸ばして深津の手を取り、
「ごめん、深津がそんなに悩んでるって知らなくて……本当は、朝だって忙しかったら作らなくったっていいんだ。それより、お前とゆっくりしてるほうが嬉しい」
「……航、さん、」
握られた手に、その温度に深津は体温を上げるように顔を染める。指をますます深く絡めて、航太郎は苦笑した顔から眉根を寄せて、渋顔を作った。
「航さん?」
「うーん、俺もこの際、今更だけど、言いたいことが……」
「え? なんですか?」
目を瞬かせる深津に、航太郎は気まずさをどう隠そう、と思案しつつ、
「俺な、」
「はい」
「…………本当は、朝シャワー浴びることなんて、滅多に、ない」
「…………え?」
びっくりした深津の顔を見れない、と航太郎は目を伏せて誤魔化せないな、と握った手に力を込めた。
「ちょっと、格好つけて、言っただけで、そんな潔癖じゃないし、むしろ朝はもっと寝てたい……」
「え…ええ?」
深津は言われた事実がすぐには理解できない、と首を傾げて、
「だ、だって、航さん、今までだって……ずっと、朝に、」
一緒に暮らし始める前も、航太郎の部屋で朝まで過ごしたことは何度もあった。けれどその時も、航太郎は朝にシャワーを浴びていたのだ。
それを航太郎も思い出し、
「ああ、あれはそりゃ、そのまま夜寝てしまうことがほとんどだっただろ? ついでに朝目の前にお前がいてちょっと落ち着かなかったと言うか……」
「……………………」
素直なその意味を、深津は正確に知ってしまった。
真っ赤になった顔で取られた手を引こうとしたが、航太郎は手を緩めない。
「だから、悪かった…俺のほうが、ごめん、」
「……っこ、航さん……っ」
「朝飯、そんなに気にしないでいられたら、もう少し朝、ゆっくり出来るよな?」
「う…………は、はい、」
「こうして向かい合わせで飯食うのも好きだけど、寝起きにベッドで、ゴロゴロするのも……好きだな」
柔らかい視線でそう告げられて、深津は赤い顔を上げられなかった。
反論がないわけでもないのに、こうなると深津は航太郎に逆らえない。どうしてなのかを考えたこともない。ただどこかで、納得してしまっている自分に気付いているのだろう。
最早細胞の中に組み込まれているのではないだろうか、と思うほど、深津は航太郎に――惚れているのだ。
それは航太郎も変わらないのかもしれないが、絶対に先に好きになったのは自分のほうだ、と言い切れる自信が深津にはあった。声を掛けて、近づいて来てくれたのは航太郎からだったけれど、先に心を奪われたのは自分のほうだ。それだけは航太郎にも譲るつもりはない。
そのことを、いつ話そうかな、と考えながら指からの温もりに浸っていると、
「……ところで、」
「……え?」
「この際だし、本当に……言いたいことがあったら、言っておくか?」
「言いたい……こと?」
「他に、深津が我慢してたり、これは本当は嫌だって思ってたり、すること…あるだろ?」
航太郎の提案はもっともだった。
深津は少し考えて、顔が作り笑顔になっていることに気付いた。
航太郎も少し視線を外して思い出し、顔を微笑ませる。
「ないのか?」
「…………ないです」
笑顔で答えたのは深津だった。それに航太郎も笑って、
「…………俺も、ないな」
お互いの胸の中でいくつかの箇条書きが浮かんだことは、笑顔の下に収めてしまう。その手の温もりさえあれば、他には何も要らない、としっかり指を絡めた。
もう少し見栄を張って、格好付けていたい、と思う気持ちが、どうしようもなく心に残ったのだ。その気持ちのズレがまたバレてしまっても、その手が離れることがなければ構わない、と今度は気持ちを重ね視線を合わせた。


何もかもが初めてで、おままごとのような同棲生活は、まだ始まったばかりだった。


fin.



INDEX